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料理というものは真心である

フィリピンを訪問していた天皇、皇后両陛下は27日夜、首都圏マニラ市のマラカニアン宮殿で晩さん会に出席し、天皇陛下が約5分間、乾杯のあいさつをされた。この中で太平洋戦争のフィリピンにおける被害について触れ、「日本人が決して忘れてはならないこと」と強調された。

天皇陛下は「昨年、先の大戦が終わって70年の年を迎えました。貴国の国内において、日米両国間のし烈な戦闘が行われ、フィリピン国の多くの人が命を失い、傷つきました」と話され、「このことは、私ども日本人が決して忘れてはならないことであり、このたびの訪問においても、私どもはこのことを深く心に置き、旅の日々を過ごすつもりでおります」と今回の訪比に対する深い思いを語られた。「 」はマニラ新聞から引用です。

日米の激戦地となったフィリピンでの日本人犠牲者は、約52万人(鳥取県推計人口59万人)。多数のフィリピン人も戦闘に巻き込まれ、約111万人が死亡した。

1月31日の日曜版の名言巡礼「料理というものは真心である」は、大正・昭和かけて長く仕えた「天皇の料理番」秋山徳蔵著「味」からの引用です。ご一読ください。

料理というものは真心である
1月31日の読売新聞日曜版[名言巡礼]より転載

「天皇の料理番」全身全霊 

大正・昭和天皇に、料理の総責任者として長く仕えた秋山徳蔵は、15歳の頃、福井県国高村(現・越前市)の実家から近くの村の仕出し料理屋へ養子に出された。

鯖江歩兵連隊の将校らに弁当を届けていたが、偶然、集会場に並べられていたカツレツやデザートなど美しい料理の数々に出会う。それは東京の西洋料理店に勤めたことのある兵隊が作ったものだった。

「西洋料理はきれいなものだなア、いい匂いのするものだなア――それが私の心に灼やきついてしまった」

数年後に上京、西洋料理店で修業した後、ヨーロッパへ。本場パリの有名ホテルで一流の料理人になると、宮内省から呼び戻され、大正天皇即位の晩餐会の責任者を任されるなど「天皇の料理番」となる。

小説やドラマにもなったサクセスストーリーだが、徳蔵が昭和天皇のために全身全霊を込め、料理を作るうちに思い始めたことがある。「料理というものは真心である――」と。

「それは陛下への心からの感謝と尊敬の気持ちの表れだと思います」。徳蔵の後妻の子、蜂谷三郎さん(86)は、そう話す。

「20代で責任者に認めていただいたご恩もあるでしょうが、いかに美しい料理を作っても心がなければ何にもならない。半世紀以上、日本を象徴する方の食事を作っていたからこそ、たどりついた心境でしょう」

昭和天皇と徳蔵が言葉を交わすことはほとんどなかったが、1972年に退職する時、「長い間、ご苦労だったね」と声をかけられると、思わず男泣きした。ねぎらいの言葉に感極まっただけでなく、重責を全うできた喜びもあったのだろう。

「でも、家庭料理は作らなかったので、私が食べた記憶はほとんどありませんね」と三郎さんは笑う。

徳蔵は著書の中で「幼少時のちょっとした体験で、人の一生は左右される」とも書き残している。

連隊で一口だけ食べたカツレツの味に魅せられ、西洋料理の世界に入った徳蔵。料理人の真心が少年の心を揺り動かし、日本を代表する料理人にまで育てたのだろう。文・西條耕一 

写真・青木久雄 秋山徳蔵が幼少時、お坊さんにあこがれて入った自宅近くの村国山中腹にある興福寺。現存する本堂で座禅や読経などの修業をしたが悪さが絶えず、わずか1年余りで破門された(福井県越前市で)

秋山徳蔵 1888〜1974年。庄屋・高森家の次男に生まれる。西洋料理人になるため10代後半で上京、後に秋山俊子と結婚して同家の養子となる。20歳頃、本格的に西洋料理を学ぶため単身で渡欧。宮内省から日本に呼び戻され、26歳から84歳まで厨司長(ちゅうしちょう)などを務めた。その人生は「天皇の料理番」(杉森久英著)として小説になったほか、昨年、TBSが連続ドラマを放送。俳優の佐藤健が徳蔵(役名は篤蔵)を演じて高い評価を受けた。今回の名言は、徳蔵の著書「味」(中公文庫)から引用した。



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