トップページ知って得する講座窪島誠一郎著『粗餐礼讃 私の「戦後」食卓日記』

窪島誠一郎著『粗餐礼讃
私の「戦後」食卓日記』

読売新聞は、お正月から多角的に「戦後70年」を特集しています。

窪島誠一郎著『粗餐礼讃 私の「戦後」食卓日記』を読みました。
帯に、あの頃の「粗食」が満たしてくれたのはお腹と心だけではなかった。生きるために必要な人との絆そのものだった!とあります。

この著書には「あとがき」がありません。だからでしょうか「はじめに」はかなりの長文ですが、抜粋もできず、その全文と58の粗食の58番目「おにぎり」を転載しました。著者は水上勉さんの実子だからでしょうか、読まされてしまいます。

はじめに―――――「戦争」と「食べ物」についての断想

私の営む戦没画学生慰霊美術館「無言館」(長野県上田市)は、先の太平洋戦争、日中戦争に出征して戦死した画学生たちの遺作を展示している美術館だが、館内にはいくつかの資料ケースが置かれてあって、なかには画学生たちが戦場から家族にあてた手紙や絵葉書、最後まで愛用していた絵具箱やスケッチ帖などがならべられている。

そんななかで、ひときわ眼をひくのが、一九四五年九月に東京美術学校(現・東京藝大)の鋳金科を繰り上げ卒業して応召、一九四五年フィリピンで二六歳で戦死した美校生小柏太郎がのこした一冊の小さな手帖である。

手帖がひらかれたページには、小柏が戦地で思い浮かべていた「食べたいもの」の一覧が番付表のようにしるされている。

ゾーニ ボタモチ テンプラ ウナギ 支那料理 サンマ アベ川 キントン ツケ焼 ドーナツ スキ焼 洋カン 五月飴 シルコ 玉子焼 干柿 赤飯 ホットケーキ 親子丼 ノリツケ焼モチ パン類 コーヒー コー茶果物類 アンコロモチ カレー スープ(コンソメ) カツ(牛・豚) 天プラソバ 菓子類 センベイ類 飴 フライ 寿司 ウドン アップルパイ 焼イモ ハム ソーセージ コロッケ キスノ天プラ マカロニ カレーソバ ビフテキ ナベヤキウドン 正月用オニシメ類 玉子ゾーニ 肉ナベ ゼンザイ テリヤキ チキンライス 焼ソバ 蛤ナベ サンドイッチ キンツバ ゼリー ポテト ソバガキ 納豆 カキフライ エビフライ メンチボール 甘酒饅頭 肉饅 肉ノ醤油ツケフライ

心ならずも絵筆を銃にかえ従軍せねばならなかった過酷な軍隊生活のなかで、極度の食料不足と疲労に見舞われていた「画学兵」の小柏太郎が、日夜、夢マボロシのように思いうかべていたのが、これらの「食べ物」だったのだろう。

想像するに、この計六十五の「食べ物」が、すべて小柏の好物だったというわけではないように思われる。当時としてはなかなか口に入らない高級食材もあげられているところをみると、小柏がまだ一ども口にしたことのなかった食べ物もふくまれているのではなかろうか。また、こうした「食べ物」の名を手帖にメモすることじたいが、極限状況の戦場におけるひそかな歓びであり、よるべない日々の孤独を解消する貴重な手だての一つだったのではないかとも推測される。「テンプラ」「キスノテンプラ」が重複していたり、「サンマ」の隣りにとつぜん「アベ川」がきていたり、「ウドン」の次が「アップルパイ」だったりしている順不同ぶりをみると、小柏がただただ、思いつつままに「食べ物」を列挙していたことがわかるのである。

小柏太郎は、現在「無言館」に展示されている鋳金作品「天女の像」を完成後、海軍予備士官学校館山砲術学校に入隊、終戦五ヶ月前の一九四五年三月十五日、激戦地だったフィリピン・クラーク地区において戦死する。いちどは志願兵として航空隊を希望していたという小柏だが、入隊まもない頃、家族が兵舎で面会したときには、「出来れば祖国にとどまっていい作品をつくりたい」つぶやいていたそうだ。


私はこの小柏太郎の手帖をみるたびに、はて、自分にもこのように、日夜夢マボロシのように思いうかべる「食べ物」があるだろうかと考える。

残念ながら、戦後の飽食と繁栄に慣れきった今の私の生活のなかで、このような熱望する「食べ物」の名をあげることは困難のようだ。けっして私は、現在の日本の富裕層にあたる暮しをしているわけではないし、国民の平均所得をそこそこといったところにいる庶民なのだが、それでも「夢にまで出てくる」食べ物をさがすのはムツカシイ。かつては高嶺の花だった「ビフテキ」や「天プラ」、めったに食べられなかった「にぎり寿司」だって、ちょっぴりふんぱつすればすぐ口にできる生活をおくっているのである。

もちろんそれは、戦後わが国が築いた「高度経済成長」のおかげだろうし、急上昇した「GDP](国民総生産)のご利益であるともいえるのだが、それは同時に、私たちがいつのまにか忘れてしまった「食べ物」に対する畏敬の念の欠如という問題でもあるような気がする。

私の友人のなかには、箸をとる前にかならず食卓の「食べ物」にむかって手を合わせる人がいるが、あれはとりもなおさず「食べ物」(およびその製作者)に対する謝意の表現であり、そうやって今日も無事「食べ物」をあたえられたことへの感謝の表れに他ならない。私は時々気のむいたときしかそれをやらない無精者だが、ああしたマナーはみていてもなかなか気持ちがよい。手を合わせる友人の所作に気付いて、あわてて自分も手を合わせながら、いかに自分が日頃「食べ物」の存在をないがしろにし、「食べ物」をあたえられて当たり前、一日三食にありつけて当たり前といった思いで暮らしているかがわかって、蕭然とさせられるのである。

おそらく戦場の小柏太郎は、頭のなかに思いうかぶ垂涎の「食べ物」名を手帖に書きつけるたび、その「食べ物」一つ一つに合掌していたことだろう。暗い宿舎の寝床のなかで、おそってくる飢餓と空腹にのたうちながら、二どと食べることのかなわぬ「食べ物」の名に手を合わせていたことだろう。

当時、画学生とかぎらず、出征して戦死した人々の大半は飢餓のために死んだ。もちろん鉄砲のタマや砲弾にあたって死んだ人もいたが、ロクな武器や食糧も与えられぬまま強攻な行軍を強いられ、最後は道の草や木の実までとって飢えをしのぎ、やがて力つきて飢餓死した兵隊たちがほとんどだった。「無言館」に収蔵されている戦没画学生の死因には、なぜか「脚気衝心」というのが多いけれども、これもまた、極度の栄養不足と疲労のために死んだ戦死者に便宜上付けられた「病名」だったという。

手帖いっぱいに「食べたいもの」を書きのこして戦死した小柏太郎も、戦死公報には、フィリピンのクラーク地点で戦死したとあるだけだった。詳しいことはわからないのだが、たぶん「飢餓死」に近いものであったろうことは容易に推察できる。


ただ、画学生のように戦場に征ったわけでも、生命にかかわるほど栄養不足になったわけでもない、一九四一年の開戦の年に生まれた私のような者にも「戦争」によってもたらされた食糧の飢餓の経験がまったくなかったわけではない。

私たちが小、中学校に通う頃は、ちょうど太平洋戦争が終結して四、五年が経った頃で、筆舌につくしがたいほど食糧が不足していた。米も麦も牛乳も配給でしか手に入らなかったし、一般庶民は反物や着物をもって地方に買い出しにゆき、辛うじて朝晩の食事をしのぐ状況だった。私たち昭和一六年生まれは、そんな終戦まもない混乱期のなかで、もっとも食欲旺盛で育ち盛りの少年期をすごしたのである。

だから、あの頃の私にも、小柏太郎のように日夜思いうかべる「食べ物」があったのだ。いつも空腹だった私たちは、家に帰ればすぐに親にオヤツをねだり、三どの食事を腹を鳴らして待ちわびた。頭のなかにうかぶものといったら「食べ物」のことばっかりで、夢のなかによく「カレーライス」や「トンカツ」が出てきた。目前に「戦士」という恐怖が迫っていた小柏たちとはあまりに境遇が違うけれども、望みがかなうならあれも食べたい、これも食べたいとヨダレを垂らし、寝ても醒めても「食べ物」ばかり思いうかべていたという点では、私たち銃後の子どもたちも同じだったのである。

それに、私は戦時中に生父母と離別し、二歳九日のときから養父母の手で育てられたという多少混みいった出時をもつ子だったので、食糧難時代の「食べ物」の思い出には、何かにつけて二人の母、二人の父の記憶が重なる。同じ「食べ物」でも、そこに生父母がいるのと養父母がいるのとではずいぶん味覚がちがったし、「食べ物」を口にするときの幸福度もちがった。自分がだれの子なのかとどこで生まれたのか子なのか知らぬまま、またその実親の存在をひた隠しにしていた養父母に育てられた私には、ある意味で食卓に並ぶ「食べ物」が、親たちが自分にそそいでくれる愛情のバロメーターになったり、日頃途絶えがちな会話をとりもどす格好のきっかけになっていたふしもあるのである。

だから、私が自分の「戦後」の食卓史を語るということは、一面において、幼かった頃の私の生父母、養父母に対する愛情の歴史を語ることになるといってもいいだろう。


しかし、それにしても、私たちはずいぶん長い間「飢餓」や「粗食」を忘れて生きてきたものだ。

さっきもいったように、今や日本国民の大多数は(もちろん今もって経済的にきびしい耐乏生活をおくっている方々もおられようが)、餓死や栄養失調にならないでいられる暮しをおくっており、その内容の差はあるにしても、三どの食事を心配するような家庭はほとんど見かけなくなっている。よほどでないかぎり、日がな「食べ物」のことを考えたり夢をみたりすることもなくなった。小柏太郎のように、銃弾の雨ふる戦場でひそかに「食べたいもの」をメモにしるす心境など、おそらく今の若者には見当もつかないことにちがいない。

もちろん、そうした「飢餓」のない恵まれた現在の世の中には、私たちのだれもが感謝せねばならないのだが、反面、そうした戦後の飽食社会のなかで失われてきたもの、いつのまにか私たちが見失ってきたものの大きさに、今更ながら自省と悔悟の念をいだかないわけにはゆかない。

それは、ひとくちにいえば、「記憶の喪失」の怖さである。

たとえば私の場合でいえば、当時の「食べ物」の記憶を失うということは、戦後の食糧難のなかで必死に自分を育ててくれた養父母の慈愛、子供の将来を慮るあまり、ついに「他家に養子に出す」ことを決心した生父母の苦悩を喪失することを意味する。「カルメラ」や「おから」や「すいとん」の味覚を忘れることは、自分たちのひもじさをこらえて、ただただ愛するわが子にだけは「カルメラ」や「おから」や「すいとん」をあたえてくれた親の姿を見失うということなのだ。

この年になってわかることだけれども、あの頃食べた「食べ物」には、すべて肉親(家族)の血が通っていたように思う。

コンビニもファミレスもなかったあの時代、どんな簡易食であろうと手作りのオヤツであろうと、それを食べるものと供する者との間には固い絆があった。「食べ物」をつうじて通いあう心のぬくみ、互いの身体を労わりあう無言のコミュニケーションがあった。だから、どんなにその食べ物が粗末なものであっても、食べる者はつくる者の愛情に手を合わせ、茶碗のすみの一粒の米までを箸の先でつまんだのだ。

「戦後」の飽食に慣れきって生きてきた私は、あの頃日本のどこにでもあったそんな当たり前の「食事の風景」を、いつのまにかすっかり忘れてしまっていたのである。


この本を書いた動機の一つは、そんな私自身の喪われた「食事の風景」を、今一ど心の奥に取りもどしてみたかったからに他ならない。

もっというなら、あの頃のわが家の「食べ物」をとりかこんでいたなつかしい「家族の風景」と、もう一ど出会いたかったからに他ならない。

そしてもう一つの動機は、これを書きはじめて思ったことなのであるが、やはり「食べ物」をつうじて思い出す生父母や養父母の実像をきちんと活字にしておきたかったからでもある。読んでもらえればわかると思うのだが、私は「食べ物」にかこつけて当時の自分の親に対する態度、考えをできるだけ正直に書いた。あとになって、あれは自分の間違いだった、ああするべきではなかったと後悔することにもふれた。戦後三十余年ぶりに再会した生母益子へのふくざつな感情や、いくぶん屈折したところもないでない、生父水上勉との交際についてもほんの少しだがふれている。この手記が、私のたどった「戦後」の食卓史であると同時に、「親なし子」だった私がしだいに成長をとげ、やがて「二組の親をもつ子」になってゆく過程をつづった成長記録の側面をもつといったゆえんである。

そして、忘れてはならないのは、あの頃どれだけ隣り近所の住人の世話になったかということだ。

昨今、家族や親子の関係のみならず、地域の住民同士の付き合いが稀薄になったといわれるが、当時は至るところに助け合いの精神が生きていた。特に食糧不足だったあの時代は、隣り近所が互いに足りないものを融通しあって暮らした。私の家族も、そんな隣人たちの温情にずいぶん助けられて「戦後」を生きのびたのだった。私はこの本のなかで、そのことも書いておきたかった。

くりかえすが、あの当時食卓にならんだ「粗食」には、そうした親と子の、家と家との、人と人との濃密な絆という「隠し味」があったような気がする。どんな粗末なオカズにも、たった一膳の「卵かけご飯」にも、腹と心を満たしてくれる「隠れスパイス」があったのである。

ただ、当時の私はあまりにも幼かったために、そのことに気付かず「貧乏はイヤだ」「もっと美味しいものを食べたい」とゴネてばかりいた。台所の母を泣かせてばかりいた。そして、こうやって七十歳になって、やっとあの頃の「粗食」の何と美味だったことよ、何と奥深い味だったことよ、とふりかえっているのである。

この本をつうじて、私は戦争中に苦労をかけつづけた生父母、養父母に静かに頭を下げたい。あなたたちのつくってくれた「ご馳走」を、死ぬまでずっと忘れません、といいたい。
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五八―――――おにぎり

私の場合、「おにぎり」ときいて反射的に思いうかべるのは、昭和三九年十月に開催された東京オリンピックのファンファーレである。

いや、正確にいえば、それはファンファーレでなく、私の店の前の甲州街道をエチオピアからきたアベベ・ビキラ選手や、自衛隊の円谷幸吉選手たちがさっそうと走っていたマラソンの風景なのだが、なぜかその日のことを思い出すと、私の耳の遠くにあのなつかしいファンファーレが高々と鳴りひびくのである。

マラソン当日、私は沿道につめかけた見物の人々に徹夜でつくった「おにぎり」を売った。おかか(カツオブシ)と梅干しの三個入りセット、それにシャケとタラコのスペシャル(?)三個セット、それを洗剤の入っていたボール紙の箱にぎっしりとつめこんで自転車の荷台にくくりつけウメボシ入りが百円、美味しいシャケ入りが百五十円!」

声をからして売りあるくと、熱戦に腹をすかせた見物人が、われ先にこの「おにぎり」にとびつく。明大前と新宿駅とは約四キロほどはなれているのだが、真ん中あたりの京王線の笹塚駅か幡ヶ谷駅に着かぬうちに、ほとんどの「おにぎり」を売りつくした日のことをおぼえている。

しかも、そうやって私が「おにぎり」を売りあるいているあいだ、店では電気店から借りてきたテレビがマラソン中継をながしていたので、店の外にまで客が列をつくる繁盛ぶりだった。臨時アルバイトの明大生がコーヒーをたてたりトーストを焼いたり、いくら手があっても足りないくらい店はお儲かり。私は「おにぎり」の自転車をこぎながら、ああとうとう自分にも春がやってきた、幸運の女神が微笑む日がやってきた、これでついに自分は貧乏から脱出できるのだ、という歓びに満身をふるわせていた。

そう、冒頭にいった「ファンファーレ」とは、十万人余の大観衆で埋まった東京代々木のオリンピックスタジアムに鳴りひびいた開会式のファンファーレではなく、当時二十二歳になったばかりの私の胸のなかで、祝砲のように轟いた「人生のファンファーレ」だったといっていいのである。

それにしても、あの時代のあの高揚感はいったい何だったのかとふりかえる。日本じゅうが何やら得体のしれない熱病にうかされ、日本人のだれももが真一文字に前方にむかって突きすすもうとしていた時代。おかしな言い方をすれば、あのオリンピックのマラソンで甲州街道を走っていたのは、アベベ選手でもなければ円谷幸吉選手でもなく、戦後の焼け跡からようやく立ち上がり、前方にみえるかすかな希望にむかって全速力で走りだした、私たち日本人の姿ではなかったかとふりかえるのである。

かんじんの「おにぎり」のレシピがあとになったけれども、あの日甲州街道で売った「おにぎり」にこれといった工夫はなかった。醤油漬けのカツオブシと細かく砕いた梅干し、特売で仕入れてきたシャケとタラコを焼いたのが主な具で、ご飯を少しやわらかめに炊くのがコツといえばコツ。ただし、沿道の見物人はとにかく空腹だったので、今コンビニで売っているのよりは一回り大きい、どちらかといえば「にぎりめし」と呼んだほうが似合う特大サイズの「おにぎり」だった。三個セットの「おにぎり」を百円、百五十円で売るというのは、当時の物価からみてかなり高額だったので、それくらい大きくないと客が納得しなかったからである。
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本書を脱稿後の二〇一一年三月十一日、戦争中の筆者が疎開していた石巻地方が東日本大震災に見舞われました。文中に触れることはできませんでしたが、疎開時にご恩になった石巻の方々、被災されたすべての方々のご無事と平穏をお祈りいたしております。窪島誠一郎
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1941(昭和16)年東京生まれ。信濃デッサン館・無言館館主、作家。
印刷工、酒場経営などを経て、1964年(同39)年、東京世田谷に小劇場運動の草分けとなる「キッド・アイラック・アート・ホール」を設立。1979(同54)年、長野県上田市に夭折画家のデッサンを展示する「信濃デッサン館」を、1997(平成9)年、同館隣接地に戦没画学生慰霊美術館「無言館」を設立。『父への手紙』『「明大前」物語』(筑摩書房)『信濃デッサン館日記』『無言館の坂道』『雁と雁の子』(平凡社)『無言館ノオト』『石榴と銃』『鬼火の里』(集英社)『無言館への旅』『高間筆子幻景』(白水社)絵本『約束』『いのち』(アリス館)など著書多数。第64回産経児童出版文化賞、第14回地方出版文化功労賞、第7回信毎賞、第13回NHK地域放送文化賞を受賞。2005(平成15)年、「無言館」の活動で第53回菊池寛賞受賞
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ご紹介しましたように「おにぎり」が最後に登場し、そして東日本大震災のお見舞い文で終わっています。

お話ししたことがありますが、私どもは西宮で阪神大震災に被災しました。瞬く間に売り切れたはずの貴重な「おにぎりとお茶」をドアーノブにかけ、時間をとらせまいと、声もかけずに辞された方がいました。お礼を申し上げに伺いましたら、その立派な二階建てのお宅は全壊でした。その有難さに大声で泣きなら帰ったあの日を、鮮烈に思い出しました。

著者、窪島誠一郎さんと同じ年です。おにぎりを売っておられた時、ちょうど社会人になったばかりです。そのときに、マラソンの沿道でおにぎり販売とは「すごいなー」の一言です。そして、58種の粗食!に万歳です。



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