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名言巡礼 谷崎潤一郎「細雪」から神戸周辺

「名言巡礼」は読売新聞の日曜版トップを飾る、毎週楽しみな記事です。
16日は谷崎潤一郎「細雪」から、以下の名言からの神戸周辺の旅でした。

形から云っても、味から云っても、鯛こそは最も日本的なる魚であり、鯛を好かない日本人は日本人らしくないのであった。

2014年2月16日の読売新聞(文・宇佐美伸)より、写真やイラストを除いて全文転載をしました。ご一読ください。
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並外れた食への執着

少なくとも5度にわたりノーベル文学賞候補となった谷崎潤一郎は、並外れた食いしん坊である。戦前の風物を陰影濃く描いた代表作「細雪」に贔屓(ひいき)のすし屋を実名で登場させ、丸々1章を割いて詳述した。

神戸の生田神社そばにあった「与兵」である。無愛想な親爺(おやじ)の腕は確かで、酢は当時の定番だった赤酢ではなく白酢を、しょうゆは関西の溜(たまり)を用いた。松茸(まつたけ)や筍(たけのこ)、柿まで握り、山葵(わさび)の代わりに青紫蘇(あおじそ)、木の芽、山椒(さんしょう)も酢飯にかませた。

何しろ主人公のひとり、蒔岡まきおか家の三女雪子は、東京に在って関西の実家に思いをはせる折々、<親爺の風貌や、彼の包丁の下で威勢よく跳ね返る明石鯛>が頭をよぎり、<切り口が青貝のように底光りする白い美しい肉の色が眼(め)の前にちらついて>しかたがないのだ。

「とにかく雲の上の人で。父の後ろでかしこまり、炊き上がったシャリをじっと扇(あお)いでいました」

生涯でただ一度、大谷崎の謦咳(けいがい)に接した尾崎幸雄さん(72)は顧みる。尾崎さんの亡父、又次郎は、作中の与兵主人その人だった。1963年夏、既に関西を離れ熱海(静岡)で暮らしていた谷崎に請われ、又次郎は神戸から夜行を乗り継ぎ、谷崎邸で往時の握りを披露した。

大学生だった尾崎さんは父の手伝いをさせられた。文豪が何をどう食べ、久々に再会した父とどんな話をしたかは、よく覚えていない。

いま、父に代わって尾崎さんが営む店は、神戸の東を流れる住吉川のほとりにある。「細雪」の舞台となった谷崎の旧居「倚松庵(いしょうあん)」は目と鼻の先だ。千枚漬けで巻く棒状の締め鯖(さば)。色鮮やかな卯(う)の花をまぶす鰯(いわし)。あるいはこんがり焼いた中骨に焙(あぶ)った握りを乗せる「筏寿(いかだす)し」。どの名物も、先代の技を愚直になぞる。

尾崎さんが、湯引きした皮を付けた鯛の刺し身を厚く引き、葉蘭(はらん)に置いた。「あの時父は、鯛だけは随分吟味してこっちから運びました。まずは鯛を握る人でしたから」

鯛こそは最も日本的――。谷崎が「細雪」に残した言葉は、同時代を生きた職人の、信念でもあった。

よくぞこの味わい深い木造家屋が今日まで生き永らえたと、素直にジーンと来た。大作「細雪」の舞台となった、倚松庵(いしょうあん)である。谷崎潤一郎は生涯に42回の転居を繰り返したが、神戸市東灘区、住吉川沿いに立つ二階屋には、1936年11月から7年に及ぶ長居となった。

東に向いた玄関からすぐ左手、8畳ほどの応接間に入ると、梁(はり)がむき出したままの天井が実に高い。2メートル40。昭和の初めの住まいとしては破格だ。暖炉が備わり、細身の広い窓がテラスに通じる。

元々は神戸の領事館に勤務したベルギー人一家が建てたもので、谷崎は家主であるその家族を追い出す形で、半ば強引に借家とした。前年、3人目で最後の妻となる松子とダブル不倫の末に添い、彼女の娘と2人の妹に何人かのお手伝いさんも抱える身ゆえ、和洋折衷の機能的な意匠はかなり魅力だったろう。

作中、初夏の倚松庵で「山村舞」の披露会が催される。応接間を見物席に、隣の食堂は金屏風(びょうぶ)を立てて舞台とし、蒔岡家四人姉妹の四女・妙子と、次女・幸子の娘の悦子が艶やかな所作を見せる。客にちらしずしが振る舞われ、隣家のドイツ人親子も興味津々で宴(うたげ)に見入る……。

不思議なことにそうした往時の匂いや気配を、中にいるとはっきり感じる。「この小説は蒔岡家の姉妹と共に建物も実は大きな登場人物です。場面や人に応じて選ばれる部屋やしつらえは見事に計算され、谷崎にとっては倚松庵もまた、主人公だったはず」。庵の案内人を務める武庫川女子大教授(日本近代文学)のたつみ都志さんは言う。

確かに。2階の8畳間で鏡台越しに幸子と妙子がゆるりと話を交わす冒頭の章も、廊下越しに風呂場の潜(くぐ)り戸の隙間から妙子の肩がちらちらのぞく中盤の場面も、あるいは初めての子を死産した妙子がかつて使った2階の6畳間に三女・雪子の嫁入り道具や進物の山を見る最終章も、家そのものの息遣いが鮮明に聞こえる。

恐らく谷崎は、7年どころかもっと庵にいたかった。作品の執筆を始めて程なく家主から立ち退きを迫られると、勝手に敷地内へ造った離れに法外な買い取りを求めるなど難癖を付け、なお1年以上も居座りを続けた。「まさに庵に対する強い愛着の証しでしょう」(たつみさん)

616人の犠牲者を出し、谷崎が作品でも生々しい惨状を描いた38年の阪神大水害。15万戸が焼失し、周辺都市部の2割が被害を受けた45年の神戸大空襲。そして95年1月17日の、阪神大震災。神戸を襲った3度の大きな災厄をこの家はくぐり抜けた。そのしぶとい生命力は、当地の象徴にも思える。

戦前関西のすし事情

すし好きの自分には、文豪谷崎が「細雪」で描く戦前の関西のすし事情はすこぶる興味深い。当時作家が懇意にした神戸のすし屋「与兵」の尾崎又次郎は、<蝦(えび)、烏賊(いか)、鮑(あわび)等の鮨(すし)には食塩を振りかけて食べるようにすすめた>。

7年連続でミシュランの三つ星を維持する東京・銀座の「鮨 すきやばし次郎」も、冬場の蛸(たこ)には粗塩を添える。普通にツメ(甘だれ)を塗るより淡泊かつ深い香りが引き立つからで、又次郎は先見の明があったわけだ。

<二番目の鮨が置かれる迄までの間に、最初の鮨を食ってしまわないと、彼(又次郎)は御機嫌が斜め>というのも愉快だ。握ったら即口へ、という雰囲気を醸す店は確かに多い。酒も飲みつつゆったり雰囲気を楽しみたいこっちにすれば、悩ましいけれど。

<トロはないか、などと云う不心得な質問を発するお客は、決して歓迎されなかった>。マグロが当時は下魚だったせいだろうが、江戸前では定番の<小鰭(こはだ)、はしら(貝柱)、青柳、玉子焼等は全く店頭に影を見せなかった>のは寂しい。でも又次郎にすれば鱧(はも)、河豚(ふぐ)、赤魚(カサゴ)など<眼の前の瀬戸内海で獲(と)れる魚なら何でも握った>のだから、要は地産地消の心意気でもあったのだろう。

作中、谷崎自身がモデルのだんなが中盤の章でいわく、「雪子ちゃんのために白葡萄ぶどう酒を一本提げて、与兵へ行くか」。昨今よく聞くすしとワインの取り合わせも、目新しいことではないのだ。

旅のアラカルト

■アクセス 東京から新幹線のぞみで新神戸駅まで2時間50分。倚松庵へはJR住吉駅、六甲ライナー魚崎駅などが最寄り。
■倚松庵 土日は無料で開館。10〜16時。原則第2土曜は、たつみ都志さんが館内を案内。詳細は関連サイトhttp://dna-office.com/isyouan/で。
■生田神社 神戸市中央区下山手通。境内で神職が酒造りをした記録があり、灘の酒造りの起源とされる。公式サイトhttp://www.ikutajinja.or.jp/
■芦屋市谷崎潤一郎記念館 芦屋市伊勢町。10〜17時、月曜休。館内には、谷崎が京都での住まいとした潺湲亭(せんかんてい)を模した中庭が広がる。特設展「『細雪』と日本の戦後復興」が3月23日まで。
公式サイトhttp://www.tanizakikan.com/
■問い合わせ先 神戸国際観光コンベンション協会(電)078・303・1,010。
神戸公式観光サイトhttp://www.feel-kobe.jp/

※「細雪」大阪の名家の4人姉妹(鶴子、幸子、雪子、妙子)を軸に、戦前の上流社会の人間模様を四季の風物と絡め、叙情細やかに描く長編小説。谷崎潤一郎(1886〜1965年)は1936年11月から7年間、住吉村(現神戸市東灘区住吉東町)に「倚松庵」を構え、3人目の妻の松子(幸子のモデル)やその妹らと暮らした。作品はこの間の日常や社会史を下敷きにしている。42年から執筆を始め、翌年に「中央公論」で一部を発表したが、当局の干渉でその後の掲載は見送られ、脱稿及び商業的出版は戦後になった。
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「名言巡礼」いかがでしたか。

「形から云っても、味から云っても、鯛こそは最も日本的なる魚であり、鯛を好かない日本人は日本人らしくないのであった。」は、新潮文庫「細雪」(上巻 十九)の最初のくだりにあります。

幸子は昔、貞之助と新婚旅行に行った時に、箱根の旅館で食い物の好き嫌いの話が出、君は魚では何が一番好きかと聞かれたので、「鯛やわ」と答え貞之助に可笑しがられたことがあった。貞之助が笑ったのは、鯛とはあまり月並過ぎるからであったが、しかし彼女の説によると、形から云っても、味から云っても、鯛こそは最も日本的なる魚であり、鯛を好かない日本人は日本人らしくないのであった。彼女のそういう心の中には、自分の生まれた上方こそは、日本で鯛の最も美味な地方、―――従って、日本の中でも最も日本的な地方であるという誇りが潜んでいるのであったが、同様に彼女は、花では何が一番好きかと問われれば、躊躇なく桜と答えるのであった。(中略)
鯛でも明石鯛でなければ旨がらない幸子は、花も京都の花でなければ見たような気がしないのであった。

そして、細雪(中巻)三十の与平の話の中で、以下の記述があります。

種は日によっていろいろだけれども、鯛と蝦とは最も自慢で、どんな時でも欠かしたことはなく、いつも真っ先に握りたがるのは鯛であった。トロはないか、などと云う不心得な質問を発するお客は、決して歓迎されなかった。(中略)
取り分け鯛の好きな幸子が、妙子に此処を紹介されてから、忽ちこの鮨に魅せられて常連の一人になったのは当然であるが、実は雪子も、幸子に劣らないくらいこの鮨には誘惑を感じていた。

幸子が縁で、気に入ったすし屋が「与平」だったということなのでしょう。
そして、店構えについて、細雪(中巻)三十で以下のように描写されています。

狭い店内は客が鍵の手に十人も椅子を連ねることが出来たであろうか。貞之助達のほかに、この近所の株屋街の旦那らしいのが店員を二三名連れたのと、その向こうの端に、花隈の芸者らしいのが姐さん株を頭に三人いるのと、それだけでもうぎっしりで、客達のうしろと壁との間には、人一人が辛うじて通れる通路しか空いていなかった。

決して立派なお店とはいえません。でも、地産地消の旬の魚を、それも活きている魚を握ってくれるのですから、これほどのグルメはありません。親爺さんの人柄、お店の雰囲気も含めてが、無形文化遺産、和食の鮨です。

谷崎さんは5度にわたりノーベル文学賞候補になったそうですが、細雪(中巻)三十を読んで、「谷崎さんのお蔭で和食が文化遺産になりました」と天国に向かって言ってあげたい気分になりました。


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