トップページ知って得する講座この時代に必要なのは、「いのち」を感じられる「食」。

この時代に必要なのは、
「いのち」を感じられる「食」。

9月26日に“この時代に必要なのは、「いのち」を感じられる「食」”という見出しで、山田養蜂場の1面広告が読売新聞朝刊に掲載されました。連続して4回目の紹介になりますが、今回は「食と教育」についてです。小学校に「農業科」を設けた喜多方市の取り組みと併せて、長文ですが、農業の多面的な役割を知って頂ければ幸いです。

「いのち」への問いかけがない時代

山田:子どもたちによる暴力行為が増えていますね。文部科学省の調査でも、07年度の全国の小、中、高校生による暴力行為の発生件数は、約5万3000件と前年に比べ2割近く増え、過去最多を記録しました。いじめや学級崩壊も依然、後を絶ちません。特にいじめは、携帯電話やパソコンを使った「ネットいじめ」が深刻化し、「死ね」「殺すぞ」といった暴力的表現が目立つ、と新聞で報道されていました。「いのちの尊さ」を実感する場がなくなったのか、ささいな理由から親や兄弟、友人を簡単に傷つけてしまう。いのちの大切さを教える教育が今、失われているような気がしてなりません。

竹熊:まったく同感ですね。今の日本には、教育だけでなく、医学や食、農業にもいのちへの問いかけや思想がないように思えます。特に教育理念の中に「いのち」への基本的な考え方がまったく感じられませんね。話が変わりますが、以前、ある農業学校へ講演に訪れたのですが、その高校は、農業高校にもかかわらず生徒たちが自家菜園をやっていませんでした。「自分たちで野菜をつくれば食費も浮くし、その分、寮費だって安くなるでしょう。部活でやってみてはどうですか」と勧めたのですが、学校側は乗り気ではありませんでしたね。生徒たちが実習で作った農産物は市場に出し、その売り上げを県に納める代わりに県が別の形で補助金を出すような仕組みになっていると聞きました。学校食堂は、民間委託になっており、入札で運営に参加している業者は市場から安い野菜ばかりを買い入れているようで、生徒たちは「食卓にはいつもキャベツばかりが並ぶ」とこぼしていました。

山田:農業高校なのに自分でつくった農作物を食べていないなんて信じられませんね。部活で自家菜園をやれば、それだけでも結構、楽しいじゃないですか。

竹熊:その農業のおもしろさを教えない今の教育が間違っています。農業高校も人が集まらないから、「農業」の文字を校名から削り、名前を変えている学校が増えているようです。私の住む熊本県でも、かつては農業高校が10校以上あったはずですが、今は数校しかないようです。

山田:全国的な傾向のようですね。やはり「大学への進学には農業高校は不利」と敬遠されるのでしょうか。農業高校は、野菜やコメの栽培からジャムやハムなどの食品加工、造園、動物の飼育まで普通高校では体験できないことが学べ、目的意識を持って入学すれば充実した学校生活が送れるし、将来の就農や就職にも有利になると思うのですが…。

竹熊:今の教育は、まさに偏差値教育そのもの。いい高校へ入って、一流の大学へ行き、有名会社へ就職する。そうすれば将来が保障されると考えているのでしょう。これでは経済的な損得だけでしか教育を考えていない、といわれても仕方ないですね。

山田:教育の世界も、経済優先、効率優先の考えに陥っているのでしょうね。

「土」が見える食育の大切さ

竹熊:今、食育が叫ばれていますが、この食育の中になぜか「土」が見えてこない。私は「土からの食育を」と訴えていますが、学校で土をいじらせることは非常に大事だと思います。野球やサッカーを奨励するのもいいですが、学校の中に農園をつくり、野菜などどんどん作らせる。農地は減反で余っているから農家から借りればいい。野菜やコメ作りなどはプロの知識を持った地域のおじいちゃん、おばあちゃんに先生役をお願いすれば、喜んでやってくれますよ。教育が百年の大計というのならば、教育の場でいのちの大切さが論じられなければなりません。今こそ、いのちの物差しを農業にも、教育
にも向けてほしいですね。

山田:食育といえば昔は、どこの農家でも鶏を飼い、その鶏が姿を変えて食卓にのぼっているのを見ながら、他の生き物から命をいただいていることを実感したものです。食事のとき、「いただきます」と言うのも、そうした他の生き物への感謝の言葉なのですが、今では、24時間営業のコンビニやファーストフード店が全国どこにでもあって、お金さえ出せば、食べたいものがいつでも自由に買えます。だから食べ物の価値がわからないし、感謝の気持ちも湧いてこないのでしょう。教育でも食べ物の大切さを教えていないから、食べ物を平気で残し、食い散らかし、粗末にしているのではないでしょうか。

竹熊:今、食べ物は街中にあふれ、人の心も飽食状態にあります。食べ物がつくる「命の尊さ」がマヒしているといっても過言ではありませんね。学校給食だってそうですよ。子供たちが食べ残したパンにしても、たとえ手をつけていなくても、文部科学省は「家に持ち帰るのはのぞましくない」という通達を出しているくらいですから。ノロウイルスの感染による食中毒を防ぐのが狙いらしいですが、コッペパンや脱脂粉乳で飢えをしのいできた我々の世代には、袋に入った手付かずのパンをごみ扱いするなんて考えられません。家に持ち帰って焼いたり、加工して食べることだってできるでしょう。「持ち帰ったものは家庭の責任で処理する」という選択肢があってもいいではないですか。学校給食も教育の一環であり、授業で「食べ物を大事に」と教えておきながら衛生面で問題があるからといって、「一律に捨てろ」というのは明らかにやりすぎだと思いますね。

山田:捨てるなんて私には「もったいなくて」できません。確かに、捨てたほうがコストはかからないし、経済的には効率的かもしれません。私は養蜂家の両親に育てられ、生き物を相手にする両親の姿を見ながら成長して来ました。だから食べ物は、「いのち」そのものなんです。自分で農業をやってみると、そのことが自分の体験を通し、実感としてわかります。わからない人には、食べ物がただのモノに見えてしまうのでしょうね。

竹熊:人間のいのちを大切にする教育、食べ物を大事にする教育が、どうもうまく機能していないようですね。

「お袋の味」も、今は「袋の味」に

山田:私が子どものころ、学校では「食事は残さずに食べましょう」と教えていました。子どもたちだって残さず食べることによって食べ物の有難みを知ったものです。それが今は、学校の先生だって嫌いなものを無理に食べろ、とは言わないようですよ。言えば、「ウチの子が登校拒否になったらどうしてくれる」と逆に学校に怒鳴り込んでくる親がいるから指導ができないという教師の悩みを聞いたことがあります。

竹熊:それと家庭での教育も変わってきた気がしますね。私自身、子供のころから、ご飯も炊き、田んぼにも出て、家畜も飼い、農業や暮らしの技術をひととおり身につけてきました。例えば、大豆の種を蒔くのは、「柿の葉に大豆を3粒包めるようになったころがよい」とお袋に教え込まれたものです。作物をつくる時は、種を早く蒔いても遅く蒔いてもだめ、時期がある、という適期適作の教えなんですね。人間が生きるうえでのこうした知恵は、祖父母や両親から受け継いできたものです。

山田:料理にしても昔は、その家に代々伝わる「お袋の味」がありましたでしょう。今は「お袋の味」といえば、単なる「袋」の味。つまり、袋に入ったレトルト食品や調理済みの惣菜、カット野菜などのことを言うようですよ。パック入りのスバゲティやハンバーグなどが全国のスーパーやコンビニなどに出回り、だれでもどこでも同じ味を同時に食べられる時代になりました。こうしたレトルト食品や冷凍食品は、画一的な教育を受けた現代の若者には、むしろ受け入れやすく、安心感もあるせいか人気が高いようです。母親たちにしてもそうですよ。昔のように食材を下ごしらえし、調理し、盛り付けるといった手間がかかる料理を嫌がり、便利で手軽な調理済み食品にばかり飛び付きます。そういう意味では「お袋の味」も、まさに「袋の味」になってしまったと言ってもよいかもしれません。

竹熊:食卓をみれば、加工食品のオンパレードだし、食品添加物も増えているのが、とても気になります。

自然と生きる知恵を次世代へ

山田:食育の大切さが叫ばれていますが、将来、大人になって生活習慣病にならないためにも、何を、どれだけ食べればよいか、食べ物を選ぶ「選食力」を養うことが必要になってきますね。食べ物情報がこれだけ氾濫し、食べたいものがいつでも手に入る時代であればなおさらのこと。安易な情報に左右されない判断力を身につけることが、今後ますます重要になってくると思いますね。

竹熊:それに加え、今の子どもたちはモノを作ることができないし、自分で火をつけることも、鉛筆を削ることだって苦手の子が多いみたいです。食べ物から遊び道具まですべて買い、お金さえあれば、こと足りると思っている。モノが豊かになると、人間が本来、持っている力と知恵が失われてしまいます。

山田:子どもたちの手先が不器用になったのは、塾通いや学校の勉強ばかり優先させ、家の手伝いをさせなくなったことも影響しているのではないでしょうか。昔は、子どもたちは誰でも当たり前のように家の手伝いをしたものです。こうした手伝いを通じて手先を使うことを覚えたのですが、そうした機会を奪った大人社会にも責任があるかもしれませんね。

竹熊:金もうけのための大人たちの浅知恵が子どもたちから生きる知恵を奪っているといっても言い過ぎではないでしょう。与えすぎることは、逆に知恵を奪うことににもなりかねません。大昔から伝えられてきた自然とともに生きる生活の知恵を守り、次の世代に引き継ぐことが私たち現代人に課せられた責務だと思いますね。

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田畑で育む思いやり:9月29日読売新聞 教育ルネサンス1142 農業に学ぶ5より転載

田畑を教室にして、知恵や心を育む小学校がある。

学校の近くにある畑で、小学5年の児童14人が、地元農家の指導を受けながら白菜の苗を植えていた。

「これ、何?」。突然、男子児童が、かけらをつまみ上げて、農家の一人に聞いた。

「カニの殻。土にいる微生物の餌になるんだよ」

畝の上にトンネル型の枠を組み立て、目の細かいネットで覆う。質問が飛んだ。「なんで網をかぶせるの?」

「風よけと、虫よけのため。ちょうちょうが卵を産み、枯らしてしまうこともあるんだ」

児童たちは、新しい発見をして学校に戻っていった。

ラーメンによる街おこしで有名な福島県喜多方市。田園地帯にある市立慶徳小学校は、今年度から農業の授業を始めた。

喜多方市は2007年度、政府の教育特区として、小学校では全国初の「農業科」を設けた。3〜6年の児童が年間を通して田畑に立ち、土作りや除草といった農業のイロハのほか、自然とのかかわりを学ぶ。18校のうち14校が導入済みで、2年後には、すべての小学校で実施する。

きっかけは、白井英男市長(66)が3年前の春。たまたま目にした新聞記事。生命科学者で、JT生命誌研究館(大阪府高槻市)の館長を務める中村佳子さん(73)が、農業を小学校の必修にするべきだと訴えた内容だった。

「これは特区でできるのではないか」。白井市長のひらめきに、教育委員会の職員たちは最初こそ「本当にできるのか」と戸惑った。指導計画も副読本もなく、一から授業の準備をしなければならない。

ところが、いくつか農業高校を視察しているうちに可能性を感じた。中学で不登校だった生徒が、高校で農業と出会い、一日も休まず学校に通い続けたという話を、何度も聞いたからだ。

農業教育の必要性を説く中村さんは「農業のいいところは、思い通りならないこと。いくらすばらしい農業をしても、台風が来たら、かなわない。自然の力はすごくて、あるときは負けても仕方がないと思うことで、人間らしい気持ちが育つ」と語る。

08年度に農業科を導入した市立三宮小学校でも、1年間で、小さな変化があった。

全校のドッジボール大会を企画したとき、6年生が率先してルールづくりを提案。児童数68人の同小では、学年混合でチームを組む。6年生が低学年にボールを投げる場合、力の差は歴然としている。そこで、利き腕とは反対の腕で投げる決まりを考えた。

周りに泥がはねないように静かに田んぼに足を入れる。下級生がたくさんの稲を抱えていたら、上級生が持ってあげる――。児童は思いやる行為を農業で自然と学び、田畑の外でも行動に移していた。

「農業の授業を通して、チームワークで働く喜びと気配りの大切さを体で覚え、その姿勢が学校現場にも広がりつつある」と、小関れい子校長(53)は実感している。

先駆的な授業に喜多方市が挑んで2年半。耕し、まいた種は、少しずつ芽生えている。(大谷秀樹)


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